6話 1998年3月20日の続き-2
それをハンカチの中に吐き出す。恐る恐る広げると唾液に混ざった赤い血の中に大きな前歯が一本、真っ白な真珠のように光っている。
純一郎にとっては、目を被いたくなるような光景である。
「ああっ、前歯が… お父さま、見て」
サクラは、弱々しい声で、上唇を上げて血だらけの口を開けた。
「どう?」
純一郎は、返す言葉を失くしてしまう。
「ええっ… その… あのー… 左の前歯が抜けてる。痛ないか? 大丈夫か? ごめんな、みんなお父さんが悪いんや」
「何言ってんの、お父さまには関係ないよ。自分でこけたし、また生えてくるって」
「うっ」
サクラのその気使いのジョークが、純一郎の胸に刺さって心が痛んだ。
「それより、お祖父さまは?」
そこに、騒ぎを聞きつけた、もう一人の年配のお手伝いさんの『岸名さん』が入ってきて、血だらけのハンカチを口にあてているサクラを見て驚いた。
「サクラさん! どうなさいました?」
「さっき、廊下でこけて顔をぶつけてしまったみたいで、サクラ! これを咬んでなさい」
きれいに折りたたんだティッシュを前歯の抜けた部分に挟みこむ。
覗き込むように見ていた岸名さんまでが、痛そうなしかめ面になる。
「あれれ、前歯が… 前歯が… 抜けたんですか? まー、どうしましょ」
「貴方!」
隣の書斎から大きな声で、雅子が呼んだ。
「ちょっと待って、すぐ行くから」
純一郎も大声で、返事を返す。
「岸名さん、濡れタオルお願いできますか?」
岸名さんが、すぐに大小のしぼった濡れタオルを持って戻ってきた。
「ちょっと、サクラを見ててもらえますか」
そう言い残し、素早く立ち上がって書斎に駆けつけると、ちょうど八郎の意識が戻りかけているところであった。雅子の大きな呼び声に反応したかのように深呼吸を一、二回してゆっくりとうつろな目を開いて上半身を雅子に支えられながら起こされた。そのにがみばしった八郎の苦痛の顔が、純一郎をにらみつけてはいたが、さすがにもう罵声を浴びせる気力は無くなっていた。
「お父さん。すみませんでした」
純一郎は、八郎の体に触れることもできず、また板の間に正座して、ただ深々と頭を下げることしかできなかった。
八郎は、雅子と佐竹さんに倒れた床からつり上げられるようにしてベットに移され、力なく左手を胸の上に置いたまま掛け布団が掛けられた。佐竹さんは、雅子に一言聞いてから、すぐに書斎の電話から一一九番へ電話を入れる。しばらくすると、八郎の呼吸も落ち着きベットの中で眠るように目を閉じた。
「あのー、旦那さま、大丈夫ですか?」
三人は、同時に、開けっ放しになっていたドアのところで覗き込むようにして声を掛けた岸名さんに振り向いた。
「大丈夫です。今、落ち着いたところ。そうだ、岸名さん、すぐに救急車が来ますので、お父さまの入院の準備をしてください」
「はい、でもー」
岸名さんには、まだ話の続きがあった。
雅子は、すぐ準備に動かない岸名さんを、少しいらついて睨みつける。
「先に、サクラさんを奥の日本間に寝かさなくてもいいでしょうか?」
その言葉に、ハッと、雅子はサクラのことを忘れていた自分に気がつく。
「貴方、どうなの? あの子は大丈夫なんでしょ」
純一郎は、目を伏せて言葉を詰まらせる。
「ねえー、貴方しっかりしてください」
「大丈夫、意識はすぐに戻ったから…。ただ倒れた時に顔をぶつけて… 前歯が抜けてしもてる」
「前歯が? まったく、あの子はおっちょこちょいだから、もーこんな時に…」
雅子は、気になる父親をおいて、すぐに応接間に走った。
応接間のソファーに、サクラがタオルで頬と口を押さえて横になっている。
「どう、大丈夫、見せて、あーあ、貴女もお祖父さまと救急病院に行く?」
「大丈夫、大丈夫、前に歯医者さんでもらった痛み止めあったから、今、それ飲んだところやから。ほんまに心配せんとって。帰ったらすぐ歯医者さん行くし、それよりお祖父さまのリセットボタン押した?」
その言葉に雅子は、一瞬身を引いた。
「あんた、こんな時によくも、まー、そんなこと言えますねー」
「ジョーク、ジョーク。生きかえったんでしょ?」
「もー、そういう言い方はやめなさい! 私たちも、すぐに病院に行きますからね。貴女は寝てなさい。いい、大変なことがおきているの。わかるでしょ」
雅子は、サクラの心配どころか、逆に少し怒って書斎に引き返していった。
サクラの繊細な心は、今は自分のことどころではないことをよく知っていた。
本当は、今まで経験したことのない激痛で泣き叫びたいのを必死にこらえていたのである。痛みを我慢して声が出ないようにタオルで口を押さえていると、大粒の涙がぽろぽろタオルの上に落ちては消えていった。
しばらくして、岸名さんが、優しくサクラを布団がひかれた奥の日本間へ連れていって寝かしつけた。
家の中では、せわしなく八郎の入院の準備に追われているいろいろな音が、奥の日本間で横になっているサクラの耳元にまで届いていた。
しばらくすると、救急車のサイレンの音が近づいてきて、家の前で止まる。
すぐに、救急隊員がドカドカと家の中に入ってきたのか、なにやら物々しい音や大きな話し声が聞こえ、書斎に寝ていた八郎の体をタンカーに乗せて運び出している様子が、サクラには手に取るようにわかった。
すると、誰かがサクラの寝ている日本間に向かって廊下を走って来る足音。
襖が開く。
純一郎だ。
「サクラ、今からお父さんたちは病院に行ってくるけど… 一緒に行こう!」
サクラは、薄暗がりの中にひかれた寝床の中から首を横に振った。
「ほんまにええんか? 薬あんねんな。ちゃんと飲むんやでー」
そう言い残し、パシィと音をたてて襖を閉めて廊下を走り去る足音が、少しずつ小さくなってやがて聞こえなくなった。と、思った瞬間、突然大きなサイレンの音が再び家中に鳴り響き、そして、遠ざかり徐々に消えていった。
まるで、そのサイレン音が、八郎の体と一緒に突然に掻き乱されたサクラの複雑な感情までをも連れ去って行ったかのように…。
いきなり訪れた静寂の中に漂う空虚。
トワイライトタイムの淡い光が、電灯を消した部屋の中を紺色に染めている。
建築家の意図なのか庭の竹の陰が、水墨画のように障子に写しだされていた。
布団の上に腰を下ろしたサクラが、無言で濡れタオルで口を押さえている。
寂しさと痛さのあまり、最後の痛み止めを一錠口に含む。
なぜだか、急に淋しさが胸を締め付ける。
またしても涙が一つ。
「こんな弱虫じゃなかったのに… お姉さま… お姉さま…」
サクラは、ぼーっとした頭の中で痛みを抑えていると、物心のついた時から病気や悲しい時は、いつもリナに寄り添っていた自分のことに気がついた。
そして、出血が気になり何回も何回も傷口から出る血をふき取るたびに激痛が走り、なかなか眠りに入ることができなかった。
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